2008年03月27日更新
<さかもと未明>社交場は戦場である
社交場は戦場である
1988年玉川大学文学部英文科卒。商社OLを経て24歳で漫画家デビュー。レディスコミック誌を中心に活躍するかたわらルポやエッセイも執筆し、売れっ子となる。00年、「文学界」にて『花悩』で作家デビュー。現在、日本テレビ『スッキリ!!』(月~金、午前8時~)のレギュラーコメンテーター。著書に『マンガ ローマ帝国の歴史1~3』(講談社)、『右よりですが、何か?』(ワック)など。
さかもと未明オフィシャルブログ「さかもと未明の和みカフェ?」http://blog.goo.ne.jp/sakamoto-mimei/
1988年玉川大学文学部英文科卒。商社OLを経て24歳で漫画家デビュー。レディスコミック誌を中心に活躍するかたわらルポやエッセイも執筆し、売れっ子となる。00年、「文学界」にて『花悩』で作家デビュー。現在、日本テレビ『スッキリ!!』(月~金、午前8時~)のレギュラーコメンテーター。著書に『マンガ ローマ帝国の歴史1~3』(講談社)、『右よりですが、何か?』(ワック)など。さかもと未明オフィシャルブログ「さかもと未明の和みカフェ?」http://blog.goo.ne.jp/sakamoto-mimei/
最近、過分な宴席に呼んでいただくことが増えた。身に余るお誘いなので万難を排して伺いたいのだが、原稿の締め切りはあるし、時に同じ日時に呼ばれたりして、なかなかどうしてスマートに登場することができない。
おしゃれにちょっと気を抜いて気後れしたこともあるし、粗相に事欠かないのも、また私の社交の実態であるが、貴重な教訓を得ることもある。
例えば、こんなことがあった。10分ほど遅刻して、しかも携帯電話の電池が切れて連絡しそびれたまま到着し、「申し訳ありません」と頭を下げると、そのお方は優しく許してくださる一方で、やんわりと諭してくださった。
「『ごめんなさい』で始まる人付き合いはあなたにとって決してプラスではないよ。携帯の充電器もどの町でも見かける携帯ショップに行けばあります。大切な時には早めに出て余裕を持って行くようにしなさい」
それは、厳しい叱責よりもよほど心に突き刺さり、私は恥ずかしさと申し訳なさとでいたたまれず、自分の幼稚さを思い知った。
けれど、それで引っ込んでばかりいては成長しない。何とかそういう方々に学びたいと心して観察していると、いちばん上座に座るべき方こそ、決して遅刻などしないと気づいた。
そういう方は遅すぎず早すぎず、ちょうどいい時間に現れてするりと席につき、たいていは静かなほほえみを浮かべて周りの人の言葉に耳を傾ける。「本当に聞いているのかしら?」と思うほど静かなのだが、ここぞという時には即答し、駄目なものは駄目と静かなトーンで断り、場の話が最も盛り上がる頃には適切な言葉で会話に加わっておいでになる。そのスマートさを前にすれば、若い娘のおべんちゃらや、知ったかぶりの会話、下らぬ冗談が通用するわけもない。私は感服するやら恥じ入るやらだが、でもまた次の機会に呼ばれたいと、仕事を頑張る気持ちにさせていただける。
社交とはまこと恐ろしい場である。家柄がよくて若い頃から様々な社交場を経験されてきた方など、洒脱でまったく付け入る隙がない。取り入ろうなどと思ったところで、周りを色々な方が取り巻き、たいていは近づくことなどできないし、次から次へとお誘いが来て移動される。作家として宴席に招かれるようになって、私は夜の社交の時間の濃密さを体感した。
社交場は戦場である。それぞれが、それぞれの職分を背負って集い、立場や職分にそぐわない言動をとれば静かに波が引いて取り残される。弱者は去るしかないのが戦場の常である。それを嘆いてもせんない。社交場では強い者がより強くなる。
幸運を手に入れたければ、自らもまた幸運でなければならない。不運な人を助けるお人よしなどどこにもいない。社交場で施しを受ける側にまわるつもりなら、戦線離脱をまず覚悟すべきである。
しかし自分が真剣に戦い続けるなら、思わぬ人に振り向いてもらうこともまたあるのが社交場である。粋な先人に認めてもらえる喜びは、それまで積み上げた苦労をあがなって余りある。
「社交の意味が分かりました。誰か助けてくれる人を探すのではなく、自分が頑張るために、粋な人にもまれればそれでいいのです。粋な人たちのなかにいられることで多くを学び自分が磨かれていく。それが社交場なのですね」
ある宴席で、いつも苦言を呈してくださる先輩につぶやいたら、「そうだね。粋というのは大変なことだけど、きれいに遊べなきゃいけないよね」と、また次の機会を約束してくださった。私は社交という戦場がどうやら好きなようだ。
おしゃれにちょっと気を抜いて気後れしたこともあるし、粗相に事欠かないのも、また私の社交の実態であるが、貴重な教訓を得ることもある。
例えば、こんなことがあった。10分ほど遅刻して、しかも携帯電話の電池が切れて連絡しそびれたまま到着し、「申し訳ありません」と頭を下げると、そのお方は優しく許してくださる一方で、やんわりと諭してくださった。
「『ごめんなさい』で始まる人付き合いはあなたにとって決してプラスではないよ。携帯の充電器もどの町でも見かける携帯ショップに行けばあります。大切な時には早めに出て余裕を持って行くようにしなさい」
それは、厳しい叱責よりもよほど心に突き刺さり、私は恥ずかしさと申し訳なさとでいたたまれず、自分の幼稚さを思い知った。
けれど、それで引っ込んでばかりいては成長しない。何とかそういう方々に学びたいと心して観察していると、いちばん上座に座るべき方こそ、決して遅刻などしないと気づいた。
そういう方は遅すぎず早すぎず、ちょうどいい時間に現れてするりと席につき、たいていは静かなほほえみを浮かべて周りの人の言葉に耳を傾ける。「本当に聞いているのかしら?」と思うほど静かなのだが、ここぞという時には即答し、駄目なものは駄目と静かなトーンで断り、場の話が最も盛り上がる頃には適切な言葉で会話に加わっておいでになる。そのスマートさを前にすれば、若い娘のおべんちゃらや、知ったかぶりの会話、下らぬ冗談が通用するわけもない。私は感服するやら恥じ入るやらだが、でもまた次の機会に呼ばれたいと、仕事を頑張る気持ちにさせていただける。
社交とはまこと恐ろしい場である。家柄がよくて若い頃から様々な社交場を経験されてきた方など、洒脱でまったく付け入る隙がない。取り入ろうなどと思ったところで、周りを色々な方が取り巻き、たいていは近づくことなどできないし、次から次へとお誘いが来て移動される。作家として宴席に招かれるようになって、私は夜の社交の時間の濃密さを体感した。
社交場は戦場である。それぞれが、それぞれの職分を背負って集い、立場や職分にそぐわない言動をとれば静かに波が引いて取り残される。弱者は去るしかないのが戦場の常である。それを嘆いてもせんない。社交場では強い者がより強くなる。
幸運を手に入れたければ、自らもまた幸運でなければならない。不運な人を助けるお人よしなどどこにもいない。社交場で施しを受ける側にまわるつもりなら、戦線離脱をまず覚悟すべきである。
しかし自分が真剣に戦い続けるなら、思わぬ人に振り向いてもらうこともまたあるのが社交場である。粋な先人に認めてもらえる喜びは、それまで積み上げた苦労をあがなって余りある。
「社交の意味が分かりました。誰か助けてくれる人を探すのではなく、自分が頑張るために、粋な人にもまれればそれでいいのです。粋な人たちのなかにいられることで多くを学び自分が磨かれていく。それが社交場なのですね」
ある宴席で、いつも苦言を呈してくださる先輩につぶやいたら、「そうだね。粋というのは大変なことだけど、きれいに遊べなきゃいけないよね」と、また次の機会を約束してくださった。私は社交という戦場がどうやら好きなようだ。



